19 October

2023年うしお画廊での個展を終えて

今回の個展について、多くの皆さまからコメントを頂戴しましたので、今回はそれについてお話したいと思います。

何と「これまでも勿論良かったのですが、今回の個展がこれまで拝見した柴田先生の個展の中でも一番良かった」というご意見を複数頂きました。その他にも、幾つか嬉しいコメントをご紹介します。

「これまで以上に、人物がグッとこちらに迫ってくる感じで、心を引き寄せられた」

「DMでみた風景画の色は、印象ではマゼンタが強く見えたが、実際には色のバランスは絶妙で、印刷物ではわからない美しい色の重ねや丁寧な描画が観られてよかった」

「これまで以上に、赤の使い方が絶妙で、深みを感じた」

「印刷物やネットで見た時にはもっと偶発的な描画と思ったが、実物を観るとそうではなく、よく練られて色を置かれていることがわかって感動した」

「これまで見たことがない、新境地と感じる作品も多いように思えた」

その他、個展期間中と終了後に多くのご意見・ご感想を頂き、有り難く思っております。

私自身は、今回の個展とこれまでの個展の作品と比べて、制作方法や考え方を、何か意識的に変えたという訳でもないのですが、皆さんが何か良い変化を感じ取られたのであれば、それはこれまでの積み重ねから得られた成果だと思うので、とても嬉しいです。

今回の個展で30回目となりましたが、2000年、うしお画廊の前身であるみゆき画廊での個展以来、11回個展をしてきたわけですので、私にとってこの画廊は、発表のホームグラウンドだと言うことができます。

みゆき画廊からうしお画廊に移転後、2017年、2020年、そして今回2023年と個展を重ねて参りましたが、実は「少しずつ内容に良い変化が現れてきたのではないか」と、画廊オーナーの牛尾さんからも同様に嬉しいお言葉を頂きました。

牛尾さんとのお話に挙がったのは、私を取り巻く環境の変化です。5年前、武蔵美を退職し、同時に公募団体展への参加をやめたことが、私の作品に良い結果をもたらすことになったのではないか、ということだと思います。

そのように考えると、確かに作品制作上、より自分の表現を追究する姿勢を維持しやすい環境になったのは確かです。

安定した収入はなくなりましたが、様々な制約が減り、時間とエネルギーをより純度の高い状態で制作に使うことが可能になりました。

勿論、時間をかければ必ず良いものが出来るわけではありません。しかし絵画に限らず、もの作りには「どのくらいの手間をかけて十分な心遣いが出来たか」が大切になりますので、時間とエネルギーの量と質は重要です。

今後、発表のペースは落ちると思いますが、体調に気を付けつつ、制作活動を継続して参りたいと思います。

https://youtu.be/zTGnLTCpQio?si=o1aUJA4Ohs6rrLIy
20:52:00 | tshibata | |

03 October

「第30回 柴田 俊明 展 “ Variation and Unity ” < 変化 と 統一 >」開催にあたって

「第30回 柴田 俊明 展 “ Variation and Unity ” < 変化 と 統一 >」開催にあたって

1989年の初個展以来、34年が経ち、今回で30回目の個展となりました。

これまで、観察表現を通して目に見えない何かを探ったり、古典的表現から新たな表現を模索したり、普遍的なものから特殊なものを見つけるなど、「矛盾を成立させること」をコンセプトとして制作をしてきました。矛盾や対立をひとつの作品として「統一」していく中で、発展が生まれるからです。

このような制作に対する考え方や姿勢は、大学院以来「不可視のものを描く画家」と言われたロシア・アヴァンギャルドの画家パーヴェル・フィローノフ(1883-1941)の作品と理論を研究し続けてきたことや、2018年まで22年間、武蔵野美術学園での教育研究に関わらせて頂いたことによる影響が、様々な意味で自らの作品制作に還ってきていると実感しております。

そして絵を描くことの面白さは何かと考えた時、今惹かれるのは「変化」です。同じ動きを繰り返しても、あるいは固定されたポーズでも、モデル本人やその周囲の状況や時間により微妙な変化が生じます。風景や静物でも、時間の経過によって様々な変化を見つけることが出来ます。観察を通してそれらをみつけることが面白く感じるのです。

捉えた微妙な変化の示すものを探っていきたいと思います。

2023年10月2日
柴田 俊明
20:56:00 | tshibata | |

23 April

絵画の芸術的価値は造形性

音楽だったら、どんな立派なテーマや共感出来る物語があろうと、リズムやメロディー、ハーモニーがつまらないと繰り返し聴こうという気になりません。音楽性が低ければ惹かれないのです。

美術は違う、という人がいますが、私は同じだと思います。例えば絵画なら、やはり、惹きつけられる作品には、優れた造形性があります。色や形、構図、構成、タッチやマチエールなどです。

テーマやストーリーも重要な要素であると思いますが、そこが第一条件ではないと思うのです。もしそこが第一条件に出来る作家がいるとしたら、十分な造形力があるからこそでしょう。

例えば、ミケランジェロの「天地創造」と「最後の審判」。歴史に残る名作、システィーナ礼拝堂の壁画ですが、これはキリスト教的なテーマで描かれています。でも私などはこの世界観を詳しく知らないし、そもそも家の宗教は神道なので、その点に親近感はありません。

しかしこの作品は素晴らしいと思うのです。それぞれがどのような場面を描いたものであるかは良くわからないですが、この作品世界にグッと引き込まれていきます。

あらかじめ書きますが、キリスト教的世界観が素晴らしいか否かを論じているのではありません。ある人には素晴らしいものであり、また別の人にはどうでもよいものかもしれません。

しかし、そこに関してどのような価値観を持っていようとも、この作品の芸術的価値については、世界中のほとんどの人が認めざるを得ないのではないかと思います。これは造形的な問題だと思います。

ところで、素人が描いたヘタな絵でも素晴らしいものがある、という方がいらっしゃいます。私はカルチャースクールや絵画教室などで、多くの受講生を教えて来ましたので、それについては経験がありますから、その意見はある程度理解できます。

また、子どもが描いたらくがきのような絵でも、素晴らしいものがある、という人もいらっしゃいます。これも理解できます。

しかし、これらの事例を根拠にして「良い絵を描くのには技術や知識は必要ない、関係ない」ということは出来ません。ましてや「技術的に優れた作品は良い作品たり得ない」という意見には全く同意出来ません。

素人や子どもの絵が面白く、魅力的に感じることがあるのは確かです。でもいつもではありません。そういう時もある、ということにすぎません。

彼らには、絵画制作の基本的な技術がなく、専門的知識もありません。だからこそ、専門家が出来ないような面白さが見える時があるのです。また、その人の持つ性格的な部分や個性が、誤魔化しようもなく現れるのも魅力を感じる理由です。

それを理由に専門家が専門的な知識や技術を放棄したらどうなるでしょう?もしかしたら、ごく稀に面白いものが出来るかもしれません。

でも、残念ながら専門家は常に求められた高いクオリティで制作出来るからこそ専門家と言えるのです。子どもや素人にしか出来ない面白さは、子どもや素人に任せる方が良いのではないでしょうか。

03:48:00 | tshibata | |

26 November

ギャラリートーク 「私の作品における赤について」

淡路町カフェ・カプチェットロッソにて、10月10日、個展期間中に「オータムフルートコンサート&ギャラリートーク」イベントを開催しました。以下、ギャラリートークの内容を公開します。

柴田俊明ギャラリートーク
【私の作品における赤について】

ご来場の皆さま、こんにちは。柴田俊明と申します。

皆さま、本日は淡路町カフェ・カプチェットロッソにようこそお出かけくださいました。 白川真理さんと赤松美代子さんの素晴らしい演奏、お楽しみ頂けましたでしょうか?素晴らしき演奏の後に大変恐縮ではございますが、これより、ギャラリートークということで、しばらくの間、私の絵の話をお聴き頂ければと思います。皆さまのお手元にお配りした資料は、5年前、立川のたましんギャラリーにて開催された、私の回顧展の図録です。回顧展ですので、過去の代表的な作品が掲載されておりますので、展示作品と併せて、これからお話する際の参考にして頂ければと思います。

 私にとって初個展以来、33年経ち、今回、28回目の個展になります。「change and harmony」というサブタイトルをつけさせていただきました。

 2020年あたりから、私の作品のテーマとして、「change and motion」と言うものがありました。これは、「変化と運動」というような意味です。本来、絵画というものは、静止した世界です。現実の世界の時間は、一瞬たりとも止まることのないわけですが、その美しい一瞬を切り取って、永遠に閉じ込めたのが絵画の世界です。

 つまり、そもそも絵画には本来はchangeもmotionもない、変化も運動もないわけですが、これを制作者の立場で見ると、描く対象の変化や運動を捉えていくことになります。この矛盾が、実は非常に面白いわけです。

例えば、モデルさんを使って絵を描く時、ポーズを一定時間固定して頂くのですが、人体の構造を捉え、ポーズの流れを捉えていくことで、動きのあるポーズを表現出来ます。動かない絵に動きが生まれ、変化のない絵に、変化を表現出来た時、制作者としての大きな喜びが生まれます。資料にはそのような考えで描いた作品が幾つか掲載されております。

  そのテーマから派生した今回の「change and harmony」というサブタイトルですが、これは主に絵画における「形と色の変化と調和について」を示すものです。

そこで、今回のトークでは、私の作品の色彩について、少しお話したいと思います。

皆さま、私の作品をご覧頂いて、既におわかりかもしれませんが、作品によって使われている色のバランスや量は違えど、「赤」が比較的目立つ配色の作品が多いと思います。そういうのをドミナントカラー、主調色といいいます。主な調子の色、絵に使われている色の中で、絵全体を支配する色のことをいうのですが、これが「赤」であることが多いので、よく「柴田さんが好きな色は赤ですよね?」と言われます。

実はこれは半分正しく、半分間違っています。実は、私が好きな色は「緑」です。それも、中明度低彩度と高明度低彩度の「緑」が好きです。明度とは明るさの度合いで、彩度とは鮮やかさの度合いですから、中ぐらいの明るさで鈍い「緑」と、明るくて鈍い「緑」が好みだということになります。トーンでいえば、「ライトグレイッシュ」と「グレイッシュ」あたりの「緑」ですね。絵の具でいえば、テールベルトに白を混ぜたような感じでしょうか。

そして、緑以外も明度が高く彩度が低い色を多く好んで使う時期がありました。いわゆる「パステルカラー」と呼ばれるような色味です。アクリル樹脂絵の具を使うようになってからは、チタニウムホワイトを使うことで、彩度(鮮やかさ)をグッと下げた明るめの色使いが出来るのが自分の好みでした。

これらの色を並べていくと、とても良く調和してくれるのですが、欠点として、単調でぼんやりした画面になってしまいます。それを補う目的、メリハリをつける意味で彩度の高い色を面の境界に使うことにしました。

そこで、「淡い緑」、「鈍い緑」を活かすために、補色である、「鮮やかな赤」を「アクセント」に入れるという考えが、私の作品の「赤」を使用するようになった、そもそもの理由でした。

さて、赤という色が私の絵に使われるようになったのは、このような経緯で、時期的には1989年頃からです。ところが、21世紀に入って以降、私の絵の「赤」について、ロシアと関連づけて語られるようになりました。先日もある展覧会のギャラリートーク時の質問で「思想的な色ではないのか」という質問がありました。

私は、大学院以降、20世紀のロシア・アヴァンギャルドの画家、パーヴェル・フィローノフの研究をしています。その関係から、2002年にサンクトペテルブルクに招待されて個展を開催し、研究対象であるフィローノフの作品を美術館の保管庫に特別に入室させて頂き、手にとって観る機会を得ました。そのようなことから、私の作品における「赤」は、ロシアとの関係性であるとか、ロシアの思想的影響だと想像する方もいらっしゃったのではないかと思います。

結論から申し上げれば、私の作品での「赤」という色と、ロシア美術における「赤」には直接の影響や関係性はありませんし、ましてや思想的背景はございません。そういうことがあった方が、物語としては面白かったかもしれないのですが。ただ、不思議な縁(えん)を感じます。

その「縁(えん)」についてお話ししましょう。ロシア美術における「赤」という色は、特別な意味を持つ色といわれています。ロマノフ王朝の前のリューリク王朝、イワン3世の時代、13世紀に造られた、モスクワの有名な広場が、「赤の広場」と名づけられたのは17世紀だと聞きました。古いロシア語では、「美しい(красивая/クラシーヴァヤ)」という言葉と「赤い(Красная/クラースナヤ)」という言葉は同じでした。ですので「赤の広場(Красная площадь/クラースナヤ・プローシャチ)」というのは当初「美しい広場」という意味だったようです。このことはロシア人にとって、赤という色が特別なものであることを示しています。

私はこのことを知って、偶然ではありますが、自分の絵とロシア美術には不思議な「縁」があると感じた次第です。私が自分の作品に赤を使う理由はあくまで造形的な理由ですが。

さて、赤の絵の具には様々な種類があります。その中で、私が好んで使う赤は、絵の具の名称で言えば「カドミウムレッドパープル」もしくは「カドミウムレッドディープ」です。美術関係者でないと絵の具の名前で想像がつかないと思いますが、不透明で鮮やかな、だいだい色寄りの赤です。

最初の頃の使い方は、形の変化ポイントである、稜線と言われる部分に沿って、赤を線で入れていくという使い方でした。稜線というのは、一般的には山の尾根のことですが、美術用語では、ただいま申し上げたように、形の面と面が接するエッジのことです。明暗の階調が変わるポイントとなることから、シェードラインと呼ばれることもあります。

その後、赤を色面的にも使用したり、全体に赤を塗ってからサンドペーパーで削り出していくなど、さまざまな使い方をしていきましたが、色面と色面の間を分割する線にカドミウムレッド系の絵の具を使うというのが、私の絵画制作の歴史上、最も長く続いてきた方法です。わかりやすい例でいいますと、お渡しした資料のこの作品「八月の午後 one afternoon in August」2000年制作の作品ですが、これは色面を「カドミウムレッドディープ」で分割しています。

しかし、ここ近年では、油絵具で言えば「ローズマダー」、アクリル絵の具で言えば「キナクリドンマゼンタ」のような、透明色で紫寄りの赤も使用するようになってきました。DM掲載作品の背景などに使用しています。

これは、絵画制作を勉強している人は何となくわかるかもしれませんが、グレーズ、透層といって、セロファンを貼ったような透明度のある重ね方をするときに使っています。

このような使い方は、画面全体の統一感を出し、全体を暗くし、その後の明部の描画を際立たせる効果があります。これを以前までは「カドミウムレッドディープ」のような不透明色でやっていたのを、なぜ透明色も使うようにしたのかと言いますと、暗部に残した赤を通して下の層の色やタッチが見やすくなることで、色のハーモニーが複雑に出来るからです。

今、申し上げた不透明色、透明色の違いをわかりやすくいいますと、不透明色は画溶液や水などで溶いた場合でも、例えるならコップに入れた牛乳やオレンジジュースのように、向こう側が見えません。透明色というのは、例えるなら白ワインやウイスキーのように、グラスの向こう側が見える色です。例えばここにガラスがありますが、ここに透明色の赤を塗ると、ガラスの向こう側は赤く染まった世界になりますが、向こうにあるものや人が透けて見えるのは変わりません。しかし、不透明色の赤を塗ると、赤い壁になってしまい、ガラスの向こう側は見えなくなるわけです。

お渡しした資料の表紙の作品「ターニング」2013年の作品ですが、こちらは「カドミウムレッドディープ」という不透明の赤を使用して描かれています。また資料の中のこの作品「floor I」2006年の作品ですが、これのこの部分、身体の輪郭の内側の暗い部分、そして「experimental dance I」2016年の作品、このあたりの赤黒いタッチのある背景、これらは「カドミウムレッドディープ」を使ったグレーズです。薄めているのである程度透けますが、そもそも不透明の絵の具ですので、少しざらついた粒状感(りゅうじょうかん/グラニュレーション)効果と刷毛ムラがあります。

今回展示しているこちらの静物画「フィースト オブ ライト アンド シャドー/feast of light and shadow」には、「キナクリドンマゼンタ」を使っています。透明色のセロハンを貼ったような透け方が、わかりやすくご覧頂けるので、よろしければ後ほどご覧ください。こちらの作品は、インスタグラムで制作過程もご覧頂けます。

 さて、そろそろお時間となってしまいました。

最後になりましたが、こちらのお店の名前「カプチェットロッソ」は「赤ずきんちゃん」という意味ですが、ロッソというのはイタリア語の「赤」ですから、これも偶然ですが、私は本当に赤に縁があるなぁ、と思います。

今回、このような展覧会とギャラリートークの機会を与えてくださった、プロデューサーの植田嘉恵さん、会場をご提供くださったカプチェットロッソさん、素敵な演奏をお聴かせくださった白川真理さんと赤松美代子さんに心より感謝申し上げます。そして、入院していた私に代わって、搬入展示作業をお手伝いくださった、画家の大塚研一朗さん、画家の清田悠紀子さん、DMデザインや掲示物の作成等にご協力頂いた画家の手綱笹乃さんにも感謝申し上げたいと思います。有難うございました。

この後、トーク内容に関するご質問、あるいは展示作品についてのご質問、その他のご質問を時間の許す限りお受け致します。皆さま、ご清聴有難うございました。

(2022年10月10日 淡路町カフェ・カプチェットロッソにて)

12:57:43 | tshibata | |

23 October

ウクライナ情勢と「自分の目を疑うこと」

絵の教え子で、神奈川県の美術館で学芸員をされている方が、先日の私の個展に来てくださった時のことです。ひとしきり絵の話をした後、ウクライナ情勢についての話題を振ってきました。

私がロシアの美術家の研究をしており、訪露経験もあるので、話を聞きたかったとのこと。

現在の日本では、西側諸国の一員としてウクライナを支援する米国の側からの報道が圧倒的に多く、ロシア側からの情報はほとんど無視されているように感じられるため、「ロシア=悪」「ウクライナ=正義」という形が出来上がっているわけですが、それについて疑問に思い、「ロシア側からの情報も知りたいので教えて欲しい」「その上で柴田先生は(ウクライナ情勢を)どう考えているか教えてください」とのことでした。

私もあらためて考えたのですが、特に、このような紛争絡みの情報というのは、ひとつの出来事に対して、一方から発信された情報だけで判断するのは難しいです。ですので、両方それぞれの立場から発信された情報を、出来るだけ多角的に見比べる必要がある、ということは確かです。

ですので、このような質問をされた時点で、この方は鋭いなあ、と感心しました。

とはいえ、私も日本に住んでいるわけですし、ロシアには近年行っておりませんので、得られる情報には限りがあるのですが、知っていることをお話した上で私見を伝えました。

その際「先生はどのように情報を選別し、どのように客観的に情勢を判断しているのですか?」と聞かれました。

これもまた、とても良い質問だと思ったのですが、非常に難しいことでもあるなあ、と思いました。

「まず、重要なのは、それぞれ当事国や、その周辺地域の、文化を含めた『歴史』を知ることが大切だと思います」と答えました。

真理を探究し、本質を洞察する方法を知るには哲学も必要だと思うのですが、「哲学の知識」があっても、「哲学的な思考」が出来るとは限りません。

私の場合、そのような思考を、美術を通して学ぶことが出来ました。あらためて思ったのは、私にとって、絵を描き続けてきたことはとても大きかったということです。

絵を勉強すれば、必ず本質を見抜く目を養えるわけではないと思います。しかし、観察表現において最も重要なことが「本質を見抜くこと」であり、デッサンを繰り返すことはその訓練である、とされています。

その第一歩は「自分の目を疑うこと」ではないかな、と思いました。

15:20:00 | tshibata | |